7 December 2009

アイルランドの歴史 2 (1922年の独立~北アイルランド紛争)


2 : 「The Troubles」


北アイルランド問題についてお勉強を・・・。

(以下、Wikiより引用します)

16世紀アイルランドに移住したイングランド系・スコットランド系入植者の子孫であるプロテスタント系住民は、カトリック系住民が多数をしめる新国家で少数派となることを恐れ、独立に反対する傾向が強かった。
この傾向は島32州のうちプロテスタント住民が多数派を占める北部のアルスター地方にある6州でもっとも強かった。

1920年 イギリス政府はアイルランド統治法を制定し、北部6州はアイルランド議会で定める法の適用を受けないことを定め、アイルランドを北アイルランドと南アイルランドの2つに分割し、独自の議会を認め、それぞれの自治権を認めた。

1922年12月6日、英愛条約に基づいてアイルランド全島がアイルランド自由国としてイギリスの自治領となった。しかしその翌日、北アイルランド政府はアイルランド自由国(後にアイルランド共和国として完全独立)からの離脱を決定し、イギリス(連合王国)への再編入を希望することをイギリス政府に公式に通告した。これにより、北アイルランドは独自の議会と政府を持つ、イギリス連合王国の構成国の1つとなった。

独立戦争を戦ったIRA(アイルランド共和軍)の一部はアイルランド国防軍に加わったが、一部は英愛条約に反対し、非正規軍としてアイルランド内戦で国防軍と戦った。

アイルランドを分断することになった条約が批准されると、アイルランド国内のナショナリストたちは条約賛成派と条約反対派に二分された。1922年から1923年にかけて両者の間にはアイルランド内戦が発生し多くの犠牲者を出した。

1921年から1971年にかけて北アイルランドは東ベルファストに基盤を置くアルスター統一党政府により統治されていた。
創設者のジェームズ・クレイグは北アイルランドを「プロテスタントによるプロテスタント国家」であると述べている。

Fall Road (Belfast)~通称「平和の壁」


カトリック教徒が被っていた就職や住居そして政治上の差別は多数派に有利な選挙システムにより成り立っていた。 (まるでアメリカ公民権運動の白人と有色人種のように)

1960年代アメリカ合衆国における公民権運動の活発化により差別撤廃への関心が強まった。
カトリック教徒によるデモがユニオニストの影響下にある北アイルランド警察RUCにより暴力を用いて鎮圧されたため社会不安が増加した。例えばアイルランド国旗はもとよりイギリスもしくは北アイルランド以外の他国の国旗すら家に掲げることすら許されなかった。

Building in IRELAND of EQUALS (Belfast)



またカトリック住民とプロテスタント住民との衝突も活発化した。

1966年、IRAに対抗するためプロテスタント系の非合法の民兵組織アルスター義勇軍が組織され、カトリック住民に対するテロ行為を開始した。

1969年に北アイルランド各地でカトリック住民と現地警察との間で大規模な暴動が繰り返し発生。
騒乱を鎮めるために英軍部隊が北アイルランドに派遣され現地の警察に変わり街の警備につくことになった。

現地警察に不信感を抱くカトリック住民は当初、英軍派遣を歓迎し、兵士たちにサンドイッチや紅茶などをふるまう姿が見られたが、軍と住民との間の友好関係は長続きしなかった。

紛争は血の日曜日事件と血の金曜日事件が発生した1970年代前半に頂点を迎えた。

Bloody Sunday (Derry)


北アイルランド政府に解決能力がないと見たイギリス政府は同年ストーモント議会(北アイルランド議会)を廃止し北アイルランドはイギリス本国政府の直轄統治下に入れられた。

北アイルランドではRUCと英軍、カトリック系のIRA暫定派、IRA、INLA、プロテスタント系のアルスター防衛同盟、アルスター義勇軍などが互いに攻撃・テロを繰りかえし、これらの事件による死者は3,000名にも及ぶ。

テロは北アイルランドのみならず、イギリス本土、アイルランドにも伝播していった。イングランドでの死者数は125名に及び、またドイツ、オランダ、ジブラルタルなどヨーロッパ大陸でも英軍兵士を標的にするテロ行為や、IRAに対する英軍特殊部隊の作戦などで18名の死者が出た。

Derry (Bloody Sunday)


以後の27年間、北アイルランドはイギリス政府に設けられた北アイルランド担当大臣による直接統治下に置かれた。

1970年代イギリス政府はアルスター化の方針のもとIRA暫定派 に対する対決姿勢を維持した。
政府の強硬姿勢によりIRAによるテロは減少したものの、長期的にはどちらの勝利も望めないことは明らかであった。

IRAのテロ活動に反対するカトリックも存在したが、差別措置を撤廃しない北アイルランド政府に対して彼らが好意的になることはなかった。

1980年代になるとIRAはリビアから大量の武器を調達して攻勢にでようと試みた。
IRAに浸透していたMI5(ジェームス・ボンドで有名な?)の諜報活動によりこの計画が失敗すると、IRAはその目標を準軍事的なものから政治的な方向へシフトするようになる。

IRAの"停戦"はこの動きの一部であった。

1986年にはイギリスとアイルランド政府がアングロ・アイリッシュ協定を調印し政治的な解決を模索した。長期にわたる紛争により北アイルランドは高い失業率に苦しめられ、70年代から80年代にかけて行われたイギリス政府のてこ入れによる公共サービスの近代化も遅々として進まなかった。

90年代に入るとイギリス・アイルランド両国の経済が好転し紛争も沈静化する傾向が見えてきた。近年北アイルランドではカトリックの人口が増加しつつあり、全人口の40%以上を占めるようになっている。英国政府は、「北アイルランドの帰属は住民の民主的決定に従う」としている。

1996年になると交渉が再開し、1998年4月10日のベルファスト合意(聖金曜日協定またはグッドフライデー合意とも)により北アイルランド議会や、アイルランド共和国と北アイルランド議会の代表で構成される南北評議会が設立され、ユニオニストとナショナリストの双方が北アイルランド政府に参加することとなった。

しかし両党の党首と北アイルランド議会は総選挙の延期を決定した。

現在は各テロ組織の武装解除、北アイルランドの政治体制の変革、イギリス軍基地の撤退問題などが注目されているが、これまでの和平を担ってきた穏健派のアルスター統一党(ユニオニスト)と社会民主労働党(ナショナリスト)両党よりも急進的なアルスター民主統一党とシン・フェイン党の党勢が拡大しており今後も予断を許さない状況にある。

「ナショナリスト」は大抵アイルランド系、カトリックであり、「ユニオニスト」はスコットランド系、プロテスタントである傾向が強いのは事実だが、この図式は必ずしも当てはまる訳ではない。また北アイルランドでも無宗教の層が増え、北アイルランド問題を「宗教問題」とするのは誤りである。
(ナショナリストの過激派は「レパブリカン」、プロテスタントの過激派は「ロイヤリスト」と呼ばれている。)

また、IRAという呼称が有名すぎて「アイルランド人(カトリック)=テロリスト」の図式が出来上がってしまっているが、一般市民を巻き込んだ無差別テロは実のことろ、ロイヤリスト(プロテスタント)準軍事組織のものの方が多い。
(この辺はイスラエルとパレスチナに近似している・・・メディア操作とは恐ろしい)


ということで、最後まで読む事ができましたか?

複雑に絡み合って今もなお所々でくすぶっている北アイルランド問題。
結構「危険」な所(と言われる場所)に行ったりして、そこで感じた事や、現地人と話して思った事は、これからの記事に書いていくつもりだ。


別に綺麗な場所とかくつろげる場所、有名なリゾート地に旅行するのであれば、このような国の歴史なんて勉強しなくてもいいと思う。

しかし、僕は過去の事象や背景を学んだ上で、現地での「生」の臭いを思いっきり吸い込みたい。

PS : 尚、本ブログにて「北アイルランド」と「アイルランド」については統一して「+Ireland+」のラベルを付けることにします。
「One Island, One Republic!」



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